ルーペと鳥瞰図

日記と作り話のようなもの。

スイスイ

自分の左後ろから声が聞こえたので見上げると、スイカが3つ入りそうな大きなお腹がその人の顔を半分くらい隠していて、その大きなお腹は突然、目の前のプールに飛び込んで、私はたくさんの水飛沫を浴びた。この国では、プールで飛び込み禁止の規則はないみたいだ。

夏季休暇が終わりに近づいて、どこかに行くお金もないのに、貴重な休暇を前に何もしてないことに耐えられなくなって、この街に引っ越してきて初めて市営のプールに行ってきた。入場料3,5ユーロ、電車に3時間揺られて海に行くより全然安い。

入場料金を払って更衣室の入り口があって、何人かが靴と靴下を脱いでいたので、同じように倣った。廊下の奥を進めば、男女に分かれていると思っていたのだが、そこにはだだっ広いロッカーが無数に並んだ一室が広がっていた。男性がが海水パンツでロッカーの前で体を拭いていて、女性が個室に分かれている着替えスペースに入っていく。私の横に、高校生の男の子が自分の荷物を取りに来て、私は慌てて道を開ける。ロッカーもデジタルでロックが掛かるように設定できて、それを理解するのに5分くらいまごまごしてから、水着姿になった。いよいよというところで、全員が石鹸を使ったシャワーを浴びなければいけない。石鹸は持ち込みでも置いてある液体石鹸でも可。男女構わず、敷居のないシャワースペースで、泡泡になって水着の上からシャワーを浴びていた。私も負けじと泡泡になってシャワーを済ませ、いざプール。

水に入って、平泳ぎで進む。高校の時に習ったように、できるだけ水の抵抗を抑えるように、伸びる時は体が一直線になるように、腕はなるだけ惹きつけて。スイスイ。50メートルプールを往復すると、息が上がっていた。平日の午前中だけに、周りには自分より何十歳か上の人たちが多くいた。みんな思い思いの格好をして、思い思いに泳いでいる。先ほどのハンプティダンプティ氏は、大きなお腹と反比例するようなキュッとする海水パンツを履いていたし、花柄のビキニを着て、堂々とぽっこりお腹とセルライトを揺らしながら歩いている先輩たちもいる。プールに行く前に、黒ではあるけど胸と背中が大きく開いているホルターネックの私の唯一の水着の何を私は心配していたんだろう。

スイスイ。水が脇腹を横切っていくのと、この中では息ができないという事実をあべこべに感じながら、何も達成していないのにただ泳いでいるだけで息が上がるだけで、気持ちよくなった。

4ヶ月で12回以上行けば元は取れるんだから、無制限入場のカードを買った方がお得かもなどということを帰り道に考えながら、左の上腕から脇腹にかけてジーンと筋肉の重みを感じ始めていた。ビート板や浮具をつけながらのんびりおしゃべりしながら泳いだり、好きな格好でプールサイドを歩く先輩たちを思い出しながら、何も達成していないのに、感じる痛みに満足感を覚えていた。

もうすぐ私の夏休みが終わる。

映画『バービー』を見てきた

私は幼い頃にバビーを一体持っていたか、それがリカちゃんだったかどうかも分からないくらい、バビーを知らない。ただ、この映画に関しては、なんとなく惹かれて、底抜けに明るいポスターを見て、日常から解放されたくて、このあと書くようなモチベーションで、映画館に行った。

 

(ネタバレなし部分)

「バーベンハイマー(Barbenheimer)」のミームについても追っていたけれど、そのミームを知る前に、すでに映画『オッペンハイマー(Oppenheimer)』はフランスで見ていた。「バーベンハイマー」を知った時に、ものすごい嫌悪感を持ったし、『バービー』も見まいと思った。けれど、聞こえてくる『バービー』の批評を聞いたり、ワーナー・ブラザーズ本社の公式な謝罪と映画『バービー』のX(ツイッター)アカウントの投稿の当該ツイートの取り消しがあったのを確認して、『バービー』も見に行こうという思いに至った。このようなミーム英語圏での教育や歴史認識の突出だと思うけれど、SNSなどで日本語圏で反対運動が起きたのは本当に良かったと思う。

 

そして『バービー』。

最近はフランスでも、映画の料金が値上がりして、通常12,90€になっているが、午前中に行けば、9,90€で見れる。日曜日の朝9時50分の回に間に合うように、少しだけおしゃれをして出かけた。フランスでは指定席はなく、着いた順に自由に座るところが多いと思うが、連合いはいつも最前列のど真ん中を好むし、誰もそんなところに座る人はいないので、大体ギリギリでも空いている。

 

(ここからはネタバレ部分を含む)

 

びっくりした。映画館を出て、こんなにスッキリしてハッピーな気持ちでスキップをしくなったのは初めてかもしれない。映画終了後、トイレに行きたくて入口の扉から出ると、一人のマダムが次の回を待っていて、私たちが出てきたのを見て、彼女の表情がぱぁーっと明るくなったのを私は多分一生忘れない。それから時計を見て、入口の扉を開けて中へ入っていった。

 

バービーランドには、いろんなバービーが活躍して、大統領バービー、医者バービー、ノーベル文学賞バービー、鳶職バービー、ステレオタイプ・バービー、ととにかく社会をバービーが動かしている感じ。ケンはというと、人種という意味でいろんなケンはもちろんいるけれど、全てのケンは、手持ち無沙汰で、そこにただいるという感じ。ライアン・ゴズリング演じるケンは、マーゴット・ロビー扮するステレオタイプ・バービーを気にしているが、思いは双方向ではない。毎晩がガールズナイトで、社会を動かしているのはバービーたち。ただ、バービーランドには性的関係がない。

ステレオタイプ・バービーとライアン・ゴズリングのケンは現実世界とバービーランドを行ったり来たりするのだが、そこで、バービーの理想の完璧な世界のバービーランドに、ケンによって家父長制が持ち込まれることになる。一方、ケンは自分のアイデンティティ、「バービーとケン」でなければ自分の存在が見出せないこと、ケンは何者であるかに悩み、バービーに涙を見せて訴える場面もある。

 

さまざまな解釈や批評がある中で、私はバービーランドでのケンの立場に感情移入できたし、その悲しみと情けなさが分かった。見た目が完璧な理想的なステレオタイプの女性を体現したバービーよりも、見た目は男性であるケンに、シスジェンダーの女性である私が共感を覚えたのは、バービーランドで誰かの付属的な立場で、何でもないただそこにいる自分に気が塞いでいるケンだったのだった。

家父長制をバービーランドに持ち込んだケンには共感できないけれど、バービーが戻ってきて、ケンに謝る(!?)ようなシーンで、バービーが、ケンはケンだよというようなことを言っていて安堵した。これが、もしケンのバービーへの好意的な気持ちに応える形であったら、多分この映画を見てここまでハッピーな気持ちを覚えなかったと思う。

 

さらに、マテル社の上層部が映画では全て冴えない数字だけを考える男性で占められて、まさに資本主義と家父長制の象徴のように描かれているのだが、それを実際のマテル社よく受け入れたなと、驚いた。きっと、台本に異議を唱える人もいたのではないかと想像に難くはないが、映画『バービー』の成功を見れば、マテル社はまさに台本を受け入れて資本主義的に言って大正解だったのだろう。映画の中では、最後まで、マテル社の執行部が変わることはないし、現実世界の今の時点での、資本主義も家父長制も変わらないことを示しているのかな、と想像した。

 

そして、現実世界の母娘(グロリアとサーシャ)のすれ違いも現実世界からバービーランドとの往復を体験することで、お互いの理解が進んでいるように見えた。それは、現実世界でサーシャがしていたバービーへの批判(女性の理想像の押し付け、資本主義など)が、バービーランドでグロリアが女性に対する社会からの要求(母、理想像、女の性的対象化など)や家父長制にした批判が、重なっていることが明らかになったからではないかなと感じる。

 

最後に、ちょっと惜しかったなと思ったのは、バービーにアジア人がいなかったこと、資本主義や家父長制をどう乗り越えるかの答えが提示されてはいないこと、クィアな視点をもう少し大衆に分かるように明確に入れて欲しかった、というくらい。完璧な映画はないので、それはこれからの映画に期待したいと思う。

 

今回の『バービー』は、「単なる」エンターテイメント映画と見せかけて、バッチリがっつりフェミニズムの映画になっていて、いろんな人が自分をいろんな形でバービーやケンに自己投影できることができる。メインストリームの影響力の大きさは拭えないけれど、これがハリウッドで大ヒットになる社会にやっとなったと思うと少し元気になれるし、少しは家父長制の拭えない人々の世界への見方も変わってほしいと願ってしまう。

 

 

 

 

 

誰にも言えない、誰も聞いてくれない

誰にも言えないことは、

誰かに言いたくなるのに、

誰かにジャッジされるのが怖くて、

結局誰にも言えないで終わる。

誰にも相談できないし、

自分で考えをぐるぐる回して、

最後に同じところに戻ってくる。

なぜ誰にも相談できないのかというと、社会的にタブーだから。

ある社会規範が支配的である時には、

僕のいうことを誰も信じてはくれないし、

誰も真面目に受け取ってはくれないし、

もしかしたら笑われるだけで終わるかもしれないし、

他の誰かに吹聴されるかもしれない。

だから誰にも言わない。

 

「他にも同じ思いをしているかもしれないのだから、

大きなムーブメントのきっかけになるかもしれないのだから、

声を上げてみようよ。」

僕が傷を負うことという代償は誰が補償する。

 

見えない差別、見えない犠牲、見えない被害。

可視化されないと動かない社会を恨む。

支配的な社会規範を恨む。

誰にも言えないことと、社会への恨みと怒りを抱えたまま、

何も癒えないまま、傷ついたまま、新たな傷を恐れて、

真面目な顔をして、平気な顔をして、死にたいと思いながら生きている。

 

 

冷めた視線で俯瞰する

彼は何にでも冷めている。高校の同級生でとても仲が良く、ただ日々連絡を取るような間柄でもないが、ふとした日常の会話から広がる話題が豊富で日々新聞などでも読んでいない限り、出てこないような情報を引き出しから出してくるといった感じで話してくれる友人。彼は、日常でも自分の意見や感情を表明するのが苦手なようだった。美味しいものを食べても、「いいね」というだけで、彼の「いいね」が出たら、我々は万々歳だったのだ。仲間で3、4人でご飯を食べに行った時、まずどこに行くか、何を食べるかを決める段階で、これがいい、あれも良かった、昨日これを食べたばかりだからこれは避けたいなど、思い思いの言葉が出てくると、彼はまとめ役に入り、ちょうどみんなの住んでいるところを加味しながら、みんなの意見の合致するところを見つけてくるのだった。この後どうするー?といった場面でも、みんなが行くようだったらそうしようといったスタンスで、自分のやりたいこととか思いとかが伝わってこないのだった。ただ、何事についても、自分の意見を言わずに俯瞰した全体像を述べるので、狭い顕微鏡で除いたような意見を持っていた私たちは、あっと驚いて、そういうことだったのかと気付かされて終わることが多かった。だけど、コロナを経て3年ぶりに会った時には、環境問題を考えてベジタリアンになっていたし、SNSでは、LGBTQや難民に関する法律の問題点を指摘した記事などをリツイートしていた。だから、我々はベジタリアンも食べれるレストランを選んで、彼がベジタリアンになった話を熱心に聞いていた。彼の方はというと、食肉用の家畜の飼育が地球全体の全ての交通手段が出す温室効果ガスを上回り、特に牛の飼育は深刻な森林伐採をはらんでいることを語り、スーパーの野菜売り場の小分けにされたビニールに包まれた売り方がいかに社会が環境問題に無知であるかを示しているかを語り、服飾産業、特にファストファッション業界が招いている何トンにも及ぶアフリカに廃棄された服の山のことを嘆いた。すでに注文していた、熱々の唐揚げが運ばれてくると、なんだか食べづらいことになっていた。彼一人が頑張ってベジタリアンになっても何も変わらないということなのか、個人レベルでできることが限られているんじゃないかということをそれとなく匂わせながら、一人が熱々の唐揚げを頬張った。彼は、そうかもしれないが、社会は個人個人がいて成り立っているということを最後に熱い語りをやめてしまった。

わがままな人

20代前半に精神的に参っていた私から、年齢とともに楽観的になったのはとってもよかった。生きやすい。あの頃、「若いんだから」とよく言われてすごく腹が立っていたのを思いだす。生きている今は人生の中で一番歳をとっているんだから、年上のしかも定年間近の立場の安定している教授に慰められたって、全然分からなかった。ただ、30代半ばを過ぎて、楽になっ他のは本当で、あの頃は若かった。色々傷つきやすくて、全てを全力で受け止めようとして、全然できなかった。なぜ、食べるの拒否して、そして食べることしかしなかったのか、そのあげく誰とも会えなくなったのかは全然分からない。でも、治った。そこには、天使のようなその当時の彼がいた。結局、元気になると、私からお別れを告げた。渡仏をして大体10年経つけれど、最近は泣けない自分に苦しい時もある。何かをやり遂げたくて、何もできずに日々重ねているだけで、全然成長していない。人生一回なんだから、やりたいことやりなさい。こう応援してくれる母は、10年前私の一番の悩みの種だったりした。全力で愛情を注ごうとする彼女に答えられずに、重たいコートを脱ぐように、脱皮するように、母の生活圏から逃げ出した。先日、母が、子は自分とは違う他人なんだよね、とこぼしていて、あぁやっとこういう会話ができるようになったかと。それを伝えようとして、ずっと逃げていた気もしないでもない。色々楽になったようで、ドーンと構えられている自分に嫌気がさしたりする。色々全力で受け止めたい。人はわがままだ。

スーパー

ポテチが無性に食べたくなって、スーパーに行ってきた。暑い夏の午後で、近くのスーパーは混んでもいないし人がいないわけでもなかった。普段の買い物は、品揃えも良くて特に野菜が安いという理由で、少し遠くにあるスーパーを利用するけれど、小腹が空いた時などは億劫して歩いて100メートルくらいの小さなスーパーに行く。

スーパーに入ると、まず野菜売り場があるのはなんでなんだろう。野菜やフルーツを見ていると、次の食事のことや季節のフルーツを食べたくなってしまって、ポテチを買いにきただけのはずが、すでに桃に目がいっていた。フランスはチーズ売り場が広い。そこで、値段と産地や乳の種類を見ていると、2人の高齢の女性がお喋りしながらスーパーに入ってくるのが見えた。一人は白いワンピース、もう一人は白いノースリーブのブラウスに生地の違う白のクロップドパンツ。涼やかな格好で、忙しなく喋っている2人の女性を横目に、ポテチを探しにチーズコーナーを後にしたが、野菜売り場でアボカドを見てしまったおかげで、今夜はファヒータにしようと決めて、小倉豆の缶詰とコーンの缶詰を探しに行くと、またその2人の女性が。

「あぁ、これを探してたんだった。」

「あなた、これ買っときなさいよ。面倒な時便利だから。」

などと聞こえてくる。私は目的のものを手にして、ファヒータに使うトルティーヤを探しに行く。そして、買うものをポテチを含め全部手にして、レジに向かっている時に、お菓子売り場でまたその2人組に遭遇。このスーパーは本当に広くない。そこで板チョコも買ってしまう。

「あなた、これ懐かしい。これを見ると思い出すなぁ」

「何を思い出すの。」

「えーーーママがよく食べてじゃない。ママのこともう忘れちゃったの」

私は、2人の関係性が分かって、心でニヤニヤしながらレジへ向かう。

レールから外れる

何かになれると思っていたけど、私は私のままずっといるだけだったし、これからもそうだと思う。

一時帰国している間に会った友人は、日本で病みに病んで、それからいろんなことを経て、移住して10年が経つ。そのずっと前になるが、彼女は、鶏ガラみたいに痩せたかと思ったら、ふっくらしてお餅みたいに膨らんでみたり、それでも私にとって彼女は彼女だったのだが、彼女自身はどの状態でも落ち着きがないようで、どの状態でも理想とかけ離れていると思っているらしかった。それから10年以上が経って、彼女は自分に納得していると言った。

自分が納得してればなんでも良いんだって思えた。他人といろんなことを比べて、社会のみんながいいって言ってること、例えば痩せてるとか、可愛いとか、みんなが「良い」って思ってる人に近づきたかった。

私から見れば、彼女は親族に可愛がられて、クラスでも美人と言われるようなタイプで、それでいて謙虚で、とにかく嫌う人を見たことがなかった。

それが嫌だった。親族からも「いい子だねー」と言われ、クラスからも一目置かれているのを感じ取って、でも現実の自分の理想とはかけ離れているから、謙虚に振る舞うになっちゃうじゃん。最初はなんでみんな私をそんなに構うんだろうって思ってたけど、そのうちに、みんなの基準と自分の理想を自分に課して、理想でいっぱいにしたら、二十歳の時に破裂したんだよね。電車も乗れなくなったし、物も正常に食べられなくなって、人とも会えなくなった。ただ、消費してるだけの価値のない、生産性のない人間になったんだ、と思った。今から思えば、「生産性」なんて言葉、掃き溜めに埋めて燃やしてしまえと思うけど、その頃はそうもいかなかった。社会が合ってると思ってたのかな。日本を出たから治りましたーなんて本当にちゃっちい物語だけど、そういうこともあるんだよって言いたい。海外組からの揶揄って思われそうだけど。。劇的に環境を変えるタイミングが良くて、そういうことを理解してくれておまけにお金を援助してくれる母親がいて、ものすごい恵まれてると思う。小さい時は、何者かになりたいみたいな感じがあったと言うか、みんなの期待に自分も乗っかりたかったけど。今は社会に溢れてるカテゴリーを剥がしていってるところで、年齢とかジェンダー規範とか色々、多分そう言うのが一番重かったから。

こう言う彼女に私はどんな形でも表に出て発信してほしいけど、そういうのは嫌だと即答された。自分をさらけ出せるほどまだ強くない、らしい。私からすれば、知り合い一人いない国に飛び込んで、社会システム、税制、保険が全然違う環境で、サバイバルして、元気に生きてる彼女はよほど強いと言いたかったけど、あぁそうか、これは私が思ってる強さで合って、彼女の強さは別にあるのかもしれないと思って言うのを辞めた。きっと、まわりから散々、強いねーと言われているに違いないから。