ルーペと鳥瞰図

日記と作り話のようなもの。

映画『バービー』を見てきた

私は幼い頃にバビーを一体持っていたか、それがリカちゃんだったかどうかも分からないくらい、バビーを知らない。ただ、この映画に関しては、なんとなく惹かれて、底抜けに明るいポスターを見て、日常から解放されたくて、このあと書くようなモチベーションで、映画館に行った。

 

(ネタバレなし部分)

「バーベンハイマー(Barbenheimer)」のミームについても追っていたけれど、そのミームを知る前に、すでに映画『オッペンハイマー(Oppenheimer)』はフランスで見ていた。「バーベンハイマー」を知った時に、ものすごい嫌悪感を持ったし、『バービー』も見まいと思った。けれど、聞こえてくる『バービー』の批評を聞いたり、ワーナー・ブラザーズ本社の公式な謝罪と映画『バービー』のX(ツイッター)アカウントの投稿の当該ツイートの取り消しがあったのを確認して、『バービー』も見に行こうという思いに至った。このようなミーム英語圏での教育や歴史認識の突出だと思うけれど、SNSなどで日本語圏で反対運動が起きたのは本当に良かったと思う。

 

そして『バービー』。

最近はフランスでも、映画の料金が値上がりして、通常12,90€になっているが、午前中に行けば、9,90€で見れる。日曜日の朝9時50分の回に間に合うように、少しだけおしゃれをして出かけた。フランスでは指定席はなく、着いた順に自由に座るところが多いと思うが、連合いはいつも最前列のど真ん中を好むし、誰もそんなところに座る人はいないので、大体ギリギリでも空いている。

 

(ここからはネタバレ部分を含む)

 

びっくりした。映画館を出て、こんなにスッキリしてハッピーな気持ちでスキップをしくなったのは初めてかもしれない。映画終了後、トイレに行きたくて入口の扉から出ると、一人のマダムが次の回を待っていて、私たちが出てきたのを見て、彼女の表情がぱぁーっと明るくなったのを私は多分一生忘れない。それから時計を見て、入口の扉を開けて中へ入っていった。

 

バービーランドには、いろんなバービーが活躍して、大統領バービー、医者バービー、ノーベル文学賞バービー、鳶職バービー、ステレオタイプ・バービー、ととにかく社会をバービーが動かしている感じ。ケンはというと、人種という意味でいろんなケンはもちろんいるけれど、全てのケンは、手持ち無沙汰で、そこにただいるという感じ。ライアン・ゴズリング演じるケンは、マーゴット・ロビー扮するステレオタイプ・バービーを気にしているが、思いは双方向ではない。毎晩がガールズナイトで、社会を動かしているのはバービーたち。ただ、バービーランドには性的関係がない。

ステレオタイプ・バービーとライアン・ゴズリングのケンは現実世界とバービーランドを行ったり来たりするのだが、そこで、バービーの理想の完璧な世界のバービーランドに、ケンによって家父長制が持ち込まれることになる。一方、ケンは自分のアイデンティティ、「バービーとケン」でなければ自分の存在が見出せないこと、ケンは何者であるかに悩み、バービーに涙を見せて訴える場面もある。

 

さまざまな解釈や批評がある中で、私はバービーランドでのケンの立場に感情移入できたし、その悲しみと情けなさが分かった。見た目が完璧な理想的なステレオタイプの女性を体現したバービーよりも、見た目は男性であるケンに、シスジェンダーの女性である私が共感を覚えたのは、バービーランドで誰かの付属的な立場で、何でもないただそこにいる自分に気が塞いでいるケンだったのだった。

家父長制をバービーランドに持ち込んだケンには共感できないけれど、バービーが戻ってきて、ケンに謝る(!?)ようなシーンで、バービーが、ケンはケンだよというようなことを言っていて安堵した。これが、もしケンのバービーへの好意的な気持ちに応える形であったら、多分この映画を見てここまでハッピーな気持ちを覚えなかったと思う。

 

さらに、マテル社の上層部が映画では全て冴えない数字だけを考える男性で占められて、まさに資本主義と家父長制の象徴のように描かれているのだが、それを実際のマテル社よく受け入れたなと、驚いた。きっと、台本に異議を唱える人もいたのではないかと想像に難くはないが、映画『バービー』の成功を見れば、マテル社はまさに台本を受け入れて資本主義的に言って大正解だったのだろう。映画の中では、最後まで、マテル社の執行部が変わることはないし、現実世界の今の時点での、資本主義も家父長制も変わらないことを示しているのかな、と想像した。

 

そして、現実世界の母娘(グロリアとサーシャ)のすれ違いも現実世界からバービーランドとの往復を体験することで、お互いの理解が進んでいるように見えた。それは、現実世界でサーシャがしていたバービーへの批判(女性の理想像の押し付け、資本主義など)が、バービーランドでグロリアが女性に対する社会からの要求(母、理想像、女の性的対象化など)や家父長制にした批判が、重なっていることが明らかになったからではないかなと感じる。

 

最後に、ちょっと惜しかったなと思ったのは、バービーにアジア人がいなかったこと、資本主義や家父長制をどう乗り越えるかの答えが提示されてはいないこと、クィアな視点をもう少し大衆に分かるように明確に入れて欲しかった、というくらい。完璧な映画はないので、それはこれからの映画に期待したいと思う。

 

今回の『バービー』は、「単なる」エンターテイメント映画と見せかけて、バッチリがっつりフェミニズムの映画になっていて、いろんな人が自分をいろんな形でバービーやケンに自己投影できることができる。メインストリームの影響力の大きさは拭えないけれど、これがハリウッドで大ヒットになる社会にやっとなったと思うと少し元気になれるし、少しは家父長制の拭えない人々の世界への見方も変わってほしいと願ってしまう。