ルーペと鳥瞰図

日記と作り話のようなもの。

冷めた視線で俯瞰する

彼は何にでも冷めている。高校の同級生でとても仲が良く、ただ日々連絡を取るような間柄でもないが、ふとした日常の会話から広がる話題が豊富で日々新聞などでも読んでいない限り、出てこないような情報を引き出しから出してくるといった感じで話してくれる友人。彼は、日常でも自分の意見や感情を表明するのが苦手なようだった。美味しいものを食べても、「いいね」というだけで、彼の「いいね」が出たら、我々は万々歳だったのだ。仲間で3、4人でご飯を食べに行った時、まずどこに行くか、何を食べるかを決める段階で、これがいい、あれも良かった、昨日これを食べたばかりだからこれは避けたいなど、思い思いの言葉が出てくると、彼はまとめ役に入り、ちょうどみんなの住んでいるところを加味しながら、みんなの意見の合致するところを見つけてくるのだった。この後どうするー?といった場面でも、みんなが行くようだったらそうしようといったスタンスで、自分のやりたいこととか思いとかが伝わってこないのだった。ただ、何事についても、自分の意見を言わずに俯瞰した全体像を述べるので、狭い顕微鏡で除いたような意見を持っていた私たちは、あっと驚いて、そういうことだったのかと気付かされて終わることが多かった。だけど、コロナを経て3年ぶりに会った時には、環境問題を考えてベジタリアンになっていたし、SNSでは、LGBTQや難民に関する法律の問題点を指摘した記事などをリツイートしていた。だから、我々はベジタリアンも食べれるレストランを選んで、彼がベジタリアンになった話を熱心に聞いていた。彼の方はというと、食肉用の家畜の飼育が地球全体の全ての交通手段が出す温室効果ガスを上回り、特に牛の飼育は深刻な森林伐採をはらんでいることを語り、スーパーの野菜売り場の小分けにされたビニールに包まれた売り方がいかに社会が環境問題に無知であるかを示しているかを語り、服飾産業、特にファストファッション業界が招いている何トンにも及ぶアフリカに廃棄された服の山のことを嘆いた。すでに注文していた、熱々の唐揚げが運ばれてくると、なんだか食べづらいことになっていた。彼一人が頑張ってベジタリアンになっても何も変わらないということなのか、個人レベルでできることが限られているんじゃないかということをそれとなく匂わせながら、一人が熱々の唐揚げを頬張った。彼は、そうかもしれないが、社会は個人個人がいて成り立っているということを最後に熱い語りをやめてしまった。